頭の良さ と 知能指数 その2

前回は、知能指数(佐藤達哉著、講談社現代新書、1997)の書評を通じて、知能指数や知能テストの歴史、負の側面について、説明しました。

頭の良さと知能指数

知能指数は、頭の良さを示す数字ではありません。知能検査で測ったテストの結果(数値)です。

 

 

頭の良さとは、そもそもどういうことか。論理的に考えを深められること、人の心を察することができること、創造性あるアイデアを考えられること、当意即妙な答えができること、学校の成績がよいこと、難関校入試を突破できること、いろいろな考えが浮かびます。

 

速く走れること、のようにスッキリできません。ただし、速く走れることにおいても、100M、400Mとマラソンでは速く走れる人が異なります。また、走る日の条件(競技場のコンディション、追い風か向かい風か)によっても異なります。100Mを世界で一番速く走れる人を決めるために、同じ時刻、同じ場所で競技会を行えば、一定の結論が出て、異論を唱える人は少なくなります。

 

 

スポーツにおいても、サッカー選手で現在最高の選手は誰か?となってくると、むつかしくなってきます。最高の選手の定義が得点数なのか、それ以外の要素も考えるのか、その定義を決めなければいけません。でも、定義を決めれば(例えば得点数、且つ、強豪チームが集めっているリーグでの得点数)、焦点を合わせることができてきます。

 

 

が、頭の良い人を決めることは、このようにはできません。そもそも頭の良さって何?ということから、人それぞれの考え方があります(それぞれの考えがあること自体が、頭の良さという言葉の深みです)また、時間や得点数という正確でわかりやすいモノサシが、頭の良さを測る場合にはありません。知能指数は、前回説明したように、社会的な活動や学習を行う上で、弱者と思われる人を見つけ出し、その教育に役立てるために、先人が創意工夫して生み出したモノサシ(知能テスト)の結果にすぎません。ストップウォッチのような機械的な正確性は望めません。

 

 

そもそも、頭の良さの定義を単純化できず(=測定する対象が定まらず)、且つ、測定するモノサシの機械的な正確性はないことが現実です。さらに、頭の良さは多様な意味を持つことを理解した上でも、人の価値を決めるものは、頭の良さではありません。まして、幸せを決めるものは頭の良さではありません。

 

 

でも、知能指数がいい人が、雑誌やSNSで取り上げられたり、逆に、知能指数の取り上げについて、批判的な論調を目にしたりします。頭がいい、頭が悪いに至っては、いたるところで日常の話題にのぼります。これが、人のつねなのでしょう。

 

これらを理解した上で、学問ノススメでは、入塾時に知能テストを行っています。

 

知能指数や知能テストに関する学問ノススメの考え

 

学問ノススメでは、大学受験での成功を目指すうえで、知能テストや知能指数を、その使い方を考えて、活用しています。大学入試は、高校までに学習したことの理解度を測る試験です。知能テストで測定する言語理解力、空間認知能力、数的理解能力は、学校で勉強する国語、数学、英語などを習得する基礎になるものです。これらの能力を測定することは、学校での学習能力を測るサポートになります(決して、頭の良さを測るサポートではありません)

 

 

知能指数を、個人や集団(人種など)の頭の良さを測るためや、人間としての優劣を決めるために使用することは、根本的に間違っています。頭の良さの定義がまとまっておらず、モノサシ自体も機械的正確性を保つことは無理、すなわち、測る対象があいまいで、測る道具も頼りないわけですから。ただし、学校での学習能力を考える意味で活用することはできます。知能指数自体が、社会的な学習能力や適応性を測るために開発されてきた道具ですから。

 

果物ナイフや包丁は、料理の為には便利な道具です。が、人を傷つけるために作られたものではありません。

 

 

知能テストを、知能指数が示す内容を理解して、且つ、その限界(あやふやさ)を理解した上で、活用することは、間違いではないと考えています。個別指導が、個性を理解して一人ひとりに最適な指導を行うことならば、知能指数に関する否定的な意見や限界を理解した上で、責任を持った使い方に自覚をもって臨むことが、学問ノススメとしての矜持です。

(文責:大井)